絵を描くとは「3つの不自由」を克服すること
は?なんでいきなり絵の話?と思う人が大半だろうが、けん玉を含む「道具を使うすべての行為」(いや、"カラダの操縦すべて"でも良いかもしれない)にあてはまるぐらい汎用性の高い考え方だと思うので紹介したい。
冒頭の言葉はcakesやnoteのCXO*1深津貴之氏*2が絵の描き方について書いた下記のnoteから。
ちょっと長くなるけど引用してみよう。
「3つの不自由」の克服とは
インプットの不自由を克服する
目から入ってきた情報を、自分が正しく認知できていない事実を自覚し、克服すること。物体の空間的な位置関係、色、光の反射などが、脳内で歪んだり捨てられたりせず、正しく受け取る能力の獲得。
シミュレーションの不自由を克服する
物体の構造を脳内で再現し、移動、回転、変形、再配置できない事実を自覚し、克服すること。脳の中で、存在しないものを構成、検討、評価する能力の獲得。
アウトプットの不自由を克服する
意図のとおりに手を動かして、任意の座標(X,Y)に色を配置できない事実を自覚し、克服すること。画材を理解し、脳内にある形状を紙面に転写し、リアルタイムにズレを補正していく能力の獲得。
僕は自動車の運転で言う「認知→判断→行動」にPDCA*3がミックスされるイメージで理解した。*4
「3つの不自由」をけん玉に置き換えるとこうなる
インプットの不自由の克服
けん玉の大きさ、重さ、バランス、視覚から入ってくるけん玉の動き、を正しく認知できていない事実を克服すること。
けん玉の空間的な位置関係を脳内で歪めず正しく受け取る能力の獲得。
シミュレーションの不自由の克服
手から離れたけん(玉)がどのような回転、動きをするのか脳内で正確に再現(予測)できない事実を自覚し、克服すること。
アウトプットの不自由の克服
意図通りに指先に至る全身を動かして任意のタイミングで任意の座標、角度にけん(玉)を配置できない事実を自覚し、克服すること。
なんだろう、この変換の違和感の無さ。
元となる深津氏の考え方の完成度のおかげですが。
改めて思ったのは操作するのはけん玉だけではない、ということ。
僕たちのこの手もヒザもち○こ(コレが最も操作を受け付けない説)も身体すべてが操作する対象なのだ。
究極あらゆるスポーツは身体能力と"その操作の優劣"を競うことが本質と言ってもあながち間違いではない。
そして付け加えるなら、インプット、シミュレーション、アウトプット、どのズレで失敗したのか(あるいは成功したのか。ズレとズレが合わさって成功することもある。)を見分ける能力の獲得こそが最も困難かもしれない。
まるでニーバーの祈り…
神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。
ーラインホルド・ニーバー(神学者)ー
あと、皿胴がすぐ抜けるけん玉を受け入れる落ち着きと、皿胴がすぐ抜けるけん玉をDIYで加工する勇気と、そんなものに心を乱されずに済む財力もさずけたまえ…
(いいかげんそろそろ皿胴のトラウマから立ち直れ。)
違いがわかる男になりてぇ…
つまり、けん玉が"上手くなる"とはインプット、シミュレーション、アウトプットの「3つの不自由」を克服すること、と言うことはできる。
そう、言うだけなら。
だがそれが無意識にできることを
きっと人は"センス"や"才能"と呼ぶ。
意識して「3つの不自由」なんてものを克服しようとしてけん玉をやっているような変態はいない。
ある程度克服できたとしても、
無意識にやっている天才が克服している領域には一生辿り着けない可能性が高い。
でもそこに嫉妬はあれど悔しさや悲しさはない。
何度も失敗するトライ&エラーという過程があるからメイクした時の喜びがある。
その喜びは誰かと比べなくても確かに自分の中にあるのだから。
あ、なんかマジメに締めすぎた…